デジタル時代の新しいカタチ

say so

旧TwitterとかThreadsとか、いろいろなヒトの考え方を知るのには、とても良いツールだと思う。インターネットのない時代は、遠くに住んでる人とのやり取りは高い電話代を払っておしゃべりしたり、お手紙を投函してやり取りし(いつの時代のヒトよ(笑))、お返事を何日も待ったり…

それが今では、片手に持った長方形の塊ひとつで世界と瞬時に繋がるんだから、恐ろしいといえば恐ろしい。。。

便利なのは素晴らしい

誰かの作った料理のレシピを知ったり、有名人の生配信を観てテレビでは知ることの出来ない一面を知ったり、わからないことが有ればググる(グーグルで調べる・ググれカス)と直ぐに答えに辿り着くし、知りたい欲求を瞬時に叶えられるようになった。本当に便利な世の中になったと思う。

便利なのは素晴らしい!
何度もいうけど、本心からそう思ってる。

言葉の力を怖れる私

私は、基本ROM専(「Read Only Member」の略:ネット掲示板やライブ配信などで書き込みをせず、閲覧することに徹する人のこと)なので、呟いたり、頻繁に投稿したり、誰かの投稿に気軽にコメントしたりできない。

基本、恥ずかしがり屋さんなので、自分のつぶやきや投稿に反応されて、バズる(英語の「buzz」からきている。SNSやインターネット上で話題になり、多くの人の注目を集めること)のも怖いし、炎上(ウェブ上の特定の対象に対して批判が殺到し、収まりがつかなさそうな状態)するのはもっと怖い。

誰かの素晴らしい投稿や、感動した投稿、応援したい投稿にイイネしたり、コメントしたりするけれど、コメントひとつすることに、何度も何度も書き直し、何度も何度も読み直してからエントリーボタンを押している。

私は自分のコトバが、誰かを傷付けるのが怖いのだ。

匿名性が言葉を軽くする

最近のThreadsは、匿名性が言葉の重みを軽くし、人々が相手を傷つけることに対して鈍感になりがちになって来たように感じている。これでは旧Twitterと変わらなくなって来た気がして、あまり活用しなくなってきてしまった。

ちょっと前にあった例えば。
電車のホームで聴導犬を連れた人を、遠くから撮影した投稿主。線路を挟んだホームからは、その犬が聴導犬であることを目視できず、犬を連れた旅行者に見えたのであろう。撮影された本人から、その犬が聴導犬である旨の投稿があがった。すると最初の投稿のコメント欄は炎上して、沢山の匿名が、投稿主を責め立てていた…見るに忍びなくなり、Threadsを閉じたので、その後どうなったのかは、わからない。

誰にでも間違いはある。投稿主が「失礼しました」と書き込むか、該当する投稿を削除するまで、待つことは出来ないのだろうか?コメント欄が荒れる中、どれほど苦しい思いをしていたのだろうか。匿名性がその苦しみに拍車をかけているように思えてならない。

そもそも、匿名であるが故に投稿主が気軽な気持ちで、他者を考慮せずに撮影して、SNSへ投稿してしまっていることにも問題点はあると思う。

匿名性そのものは悪ではない

だからって匿名が、絶対悪だとは思っていない。
批判や反論を恐れずに意見を発信するには、匿名でのやり取りが良いと思ってる。実名でやり取りすれば、投稿した内容や写真等の情報と紐づけられ、ストーキング行為や詐欺被害、個人情報を曝される危険だってある。

けれど、匿名だから何でも良いんじゃなくって、発信することがどんな影響を与えるか?を考える責任が、私たち一人ひとりにあるんじゃないかって思う。

SNSが生活の一部となった今、匿名であっても、発信した言葉が誰かの心を動かし、時に傷つける可能性があることを忘れず、目の前に相手がいないからこそ、相手の立場に立って言葉を選ぶ慎重さは、持ち続けたいと思う。

匿名性の力をどう使うかは私たち次第。誰かを傷つける道具ではなく、つながりを深め、共感を広げるためのツールとして、匿名性を活かしていきたい。

この記事を書いたヒト

愛知→宮城のゲマニア
コーヒー牛乳と無人販売巡りが大好き♪
気が付いたらもう半世紀生きたので、これからは好きなモノに囲まれて丁寧にゆっくり暮らしたい。と願って2年。なかなかゆっくり暮らせない...
2025年1月から留守家庭の妻やってます

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